2011年09月10日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、そ の罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9

 
             
神は、主の十字架の贖いゆえに、すべての罪を赦して下さる。「御子イエスの血
はすべての罪から私たちをきよめます」。すべての罪の解決はすでに備えられて
いる。大きな罪、小さな罪、真っ黒な罪、灰色の罪、すべての罪が赦される。但
し、「もし自分の罪を言い表わすなら」だ。罪を言い表わすとは、自分がした事
であり、その通りであると認めることだ。

しかし、なかなか自分の罪を素直に認めることができない。難しい。例えば、人
を憎み、裁いているとして、幾らでも理由づけて、自分を正当化できてしまう。
悪いのは相手であり、どうしても相手が悪いとしか思えない。相手の非だけが見
えて、自分が「憎んでいる」「裁いている」という事実に目が向かない。

しかし、相手がどうであれ、自分が憎んでいるという事は自分の罪だ。そこを認
める必要がある。認める時に、赦され、癒される。しかし、相手のせいにし、自
我はどこまでも認めたくないものだ。そこにプライドが巣くい、強固な自我があ
る。「認めたくありません。認められるよう助けて下さい」と祈って行く時、必
ず主の助けが臨む。

相手は、相手と神の関係であり、もし罪を犯していたなら、その責任を問われる。
しかし、自分は自分と神との関係において責任を負う。責任を取ることが悔い改
めることだ。赦しと癒しが自分のものとなり、平安が戻る。

・・・・・・・・・・・・・・
人は関係がない。どこまでも自分と主との関係だけだ。自分と主との間に問題が
無ければ、どんな厳しい状況の中でも、自分自身は平安だ。もし、自分と主との
間に障害があれば、平安が無い。悔い改めて、悔い改めて、いつも平安を頂いて
歩めることの幸い。