2012年06月10日(日)

「私はいったい何者なのでしょう・・イスラエル人をエジプトから連れ出さなけれ ばならないとは」出エジプト3:11


モーセは王子である40才の時に、同胞の救出を志すが失敗し、荒野に逃亡。そ
こで羊飼いとしての40年の歳月が流れ、かつての栄光も栄華も地位も名誉もす
べて失い、徹底的に低くされた。しかし、そこからが神の始まりであった。

苦難、挫折、痛み・・は、実は大きな恵みだ。私たちは、惨めになる事を極力恐れ、
とにかく苦しみを避けたい。惨めさには耐えられない。だが、主が、器を形造ら
れるために、どうしてもその所を通される。ギブアップした、そこでこそ、真に
主に出会うからだ。無力になった80才のモーセを、主は「ふさわしい」と召し
出された。

人の思いと神の思いは大きく違う。「モーセ、モーセ」と柴の中から主は召し出
された。「火で燃えていたのに柴は焼き尽きなかった」。主による燃え尽きない
働きに。パロに遣わすので、民をエジプトから連れ出せ。今、行けと。以前の
モーセであれば、喜び勇んで自信満々で、この使命を引き受けた事だろう。

しかし、砕かれたモーセは戸惑い、尻込みした。「私はいったい何者なのでしょ
う」そのような、とんでも無い重大な任務にあずかるなどと。もうモーセには、
野心も力も、自信も、持てるものも何も無かった。まさにそのモーセを用いられ
た。

「わたしはあなたとともにいる」、「わたしがあなたを遣わすのだ」と。弱さ、
無力を感じているだろうか。しかし、主は、そんな私たちを用いられる。自らの
力ではなく、私たちが事をなすのではなく、主が成し遂げられるために。

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あらゆるものを持ち、自信満々であったモーセは失敗した後、何も無い荒野で
の40年を通して砕かれた。砕かれる時、自分が無くなったように、何も無いよ
うに感じるが、そうではなく、実は真の自分を生き生きと豊かに生きて行ける。