2013年01月11日(金)

「キリストは・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです」ピリピ2:6


ある人が職場で、皆の前で、上司にミスを注意された。しかし、実はそれは自分のミスではなく、先輩のミスであった。が、その場にいる先輩は、素知らぬ顔をしている。自分だとは言ってくれない。手元に証拠の書類もあり、自分じゃないと言いたい衝動にかられた。しかし、自分より上の人々ばかりであり、その場がおさまらないと感じ、「申し訳ありませんでした」と一言言うと、その場が、穏やかな良い空気でおさまった。本人にも、心に主の平安が満ちた。

ある人も経験した。サークルに入った場で、相手は自分が気に入らないようで、挨拶をしても返してもらえない。しかし、こちらはこちらとして挨拶をし続けていた。全く応答は無かった。自分が来た事で、相手の持ち場が微妙になる事を感じていた。そんな中、自分は無視され、そばにいた人には気持ち良く話し出した。その時にカチン!と来て、自我が爆発しそうになり、攻撃的な言葉が出そうになった。

瞬間心の中で「神様!」と叫んだ。すると、口から「ごめんなさい」との言葉が出た。「あなたの持ち場が変わってしまって」と。相手は「そんな事ないのよ」と、とんでもないと言い恐縮した。その時から普通に和やかな関係になった。主が、神のあり方を捨てられて、ご自分を無にされて、何もかも捨てて、十字架の死にまで従われたことを覚えよう。
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自分の正しさを言えば有利なようでも、心に平安はあるだろうか。主は罪を断罪されるために来られたのではなく、赦して下さるために十字架の道を歩まれた。少しでも主に習うよう歩んで行きたい。