2013年03月11日(月)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12:6

信仰人生になぜ試練があるのか。御言葉は、その理由を神の愛だと言っている。懲らしめは愛だと。子として愛し、受け入れているからだと。しかし、私たちの古い価値観、感覚とは相容れない。試練は苦しみと痛みを伴う。苦しみの中で、なかなかこれが愛と思えず、むしろ愛されていないのでは、見捨てられているのでは、と思ってしまう。しかしこの時に、自分の思い、自分の感覚にだまされてはならない。

自分の思い、感じ、でなく、神の御言葉のほうを信じ、御言葉に立つことが肝心だ。懲らしめは愛であり、懲らしめが無いなら、私生児であって本当の子ではない。子であるからこそ、訓練し、懲らしめると。訓練は痛いが、鍛えられて困難を乗り越える力が身につく。そして、砕かれることによって、聖められて行く。
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。試練は聖められて行くためだ。「受け入れるすべての子に、むちを加えられる」「訓練と思って耐え忍べ」

又、試練の時にこそ、人は真実な祈りをする。今までの生き方、考え方、又、自分の内側がすべて裸にされ、あらわになる。何に依存していたかを知る。余裕がある時には、きれい事でやって行けるが、試練の時は余裕がなく、体裁も何もなく、ひたすら主に拠りすがる。その心底からの叫びは聞かれる。そして親しく主と交わり、主を深く知って行ける。
-----------
痛いだけで終わらせず、ふり返った時に全て益だったと言いたい。だから今の試練の中に主を認めていよう。裸の自分を知らされ、なおも聖めようとしていて下さる主に試練を通し近づいて行きたい。