2014年01月11日(土)

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」哀歌3:22

もし、愛する相手から見放され、「もう愛が無くなった」と言われ
たらどうだろう。立ち直れないかと思うほど、傷つく事だろう。し
かし、感謝な事に、主が「もう愛していない」と言われる事は決し
て無いし、永遠に無い。それがどんな場合でもだ。

信仰人生で、臨んで来る苦しみの中には、自分の罪の結果である場
合がある。自分の愚かさであり、明らかに自分の失敗、過失による
ものだ。小さなミスから、大きな失敗まで様々だ。しかし、ご性質
が「愛」である主は、私たちがどんなに失敗しても、その愛は不変
だ。

自分を責めていたなら、主に向かおう。主を仰ぎ、悔い改めて、主
に赦しを求め、主のあわれみを求めることができる。主は赦し、再
び立ち上がらせて下さる。「主のあわれみは尽きない」「それは朝
ごとに新しい」「あなたの真実は力強い」。

罪ゆえに、バビロンにより、破壊尽くされて廃墟となったエルサレ
ム。絶望的な状況の中で、哀歌の作者は、告白している。そこに、
朝日が昇り、新しい朝が来る光景の中で、「私たちが滅び失せなか
ったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きない」と。罪で滅
びて当然なのに、今、事実、生かされていること、主のあわれみが
尽きないことを。

あわれみを受ける資格がある者に与えられるのは、あわれみではな
い。受ける資格が無い者に与えられるものこそが、「あわれみ」だ。
どんな状況に陥っても、私たちも主の「あわれみ」を求めることが
できる。

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「主よ。あわれんで下さい」どんなどん底でも、主のあわれみを求
めることができる。資格の全く無い者に与えられるとは、何と有難
いことだろう。どんなに沈み込んでいても、主のあわれみは、昇る
朝日と共に、この朝にも新たに注がれて、おおわれ、満ちている。