2015年10月11日(日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなの を知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


ベテスダの池に、38年病気の男性がいた。38年とは、何と長い
期間だろう。最初は、あちこち医者に行き、良いと言われる事は試
し、ありとあらゆる方法をやってみた事だろう。どんなにしてでも
直りたい。しかし、何をやってもどうにもならない現実にぶち当た
る。試みる度に、今度こそはと期待しては、裏切られ、それの繰り
返しだった事だろう。

段々、心が折れて来る。その最後にベテスダに池にたどり着いた。
だが、そこでも同じ事だった。水が動いた時、最初に入った者はど
んな病でも癒される。じっと動く時を待ち、今度こそ、今度こそと
思うが、他人が先を越してしまう。期待しては、打ち砕かれ、挫折
の繰り返しだ。心が疲へいし、期待すると傷つくので、もう期待す
る事を止めてしまう。これ以上傷つきたくない。

主は、この38年間の苦しみ、悲しみ、悲嘆、何もかもをご存じで、
この男性に関わられた。「よくなりたいか」と。彼は介助者がいな
いから、ダメだと。介助者のいる人が先に行くと。私たちもどうだ
ろう。あれが無い、これが無い、だからだめ。又、自分がこうなの
は、状況のせい、周囲のせい、親のせい・・そうしている限り、自己
憐憫、自己正当化の中にいる限り、何も変わらない。

周囲でなく、状況でなく、自分はどうなのか。「あなたはよくなり
たいのか」と主は問われる。言い訳でなく「はい、よくなりたいで
す」と答えよう。主は臨んで、みわざをして下さる。

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「よくなりたいか」と私たちにも問われている。これまで無理だっ
た、だからこれからも無理と、諦めてしまっているだろうか。彼は、
心の奥底では、よくなりたかった。主の言葉に従った時に、奇跡が
起きた。目の前の言葉に従ってみよう。