2016年10月11日(火)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4 


 

当時のユダヤ人たちは、律法を忠実に守り、神に認められようと必
死だった。懸命に律法を守ろうとした。しかしそこには喜びも、自
由も無かった。なぜ喜びがなかったのだろう。律法を懸命に守るこ
とによって、神に認められようとしていたからだった。

律法自体は良いものであり、主は「わたしが来たのは律法を廃棄す
るためでなく、成就するため」と言われた。大事なことは、「自分
が」でなく、「主が」成就して下さるということだ。自分が成し遂
げようとすると、“文字は殺し、御霊は生かす”の通り、出来ない
自分にぶつかり、律法は良いものなのに、どんどん苦しくなり、が
んじがらめになる事を経験する。

しかし、ここに主の救いがある。人が神に受け入れられるのは、努
力や頑張りによるのでなく、罪人のまま、まず受け入れ愛して下さ
った神の愛による。私たちが神を愛する前に、愛して下さった大き
な愛だ。そこが原点だ。<神に愛されている>。そこから喜びと平
安が来て、その愛に応えたいがために、主に仕え、人に仕えて行く。
そこに真の喜びと平安がある。

律法を自分の力で行なうと、もし出来たなら、必ず出来ていない人
を裁く。自分は辛いのに、頑張っているのに、そうしていない人に
怒りが湧く。だが自分の無力を認めて、主に頼るなら、人の評価や
人の目からも自由にされる。段々人が気にならなくなる。
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神に愛され支えられているので、自由に主を愛していける。奴隷で
なく主体的に神の愛に応答して歩める。自分の力ではないと、いつ
も恵みに感謝していたい。