2017年01月11日(水)

「それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」使徒27:44


イタリヤ行きの船に乗せられたパウロたちは、風のためになかなか
進む事ができず、良い港という所に着いた。パウロはもうこれ以上
の航海は危険だと主張したが、皆により、クレテの港まで行って冬
を過ごす事になった。それで出帆したところ、何日もの激しい暴風
で、船はほんろうされた。

積み荷を捨て、船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、
事態は絶望的であった。身の危険に最後の望みも断たれようとして
いた。だがパウロは「命を失う者は一人もない。失われるのは船だ
け」と確信満ちて告げた。神は、信仰人生、失うものは何もないと
は言われない。ヤコブも「私も、失うときには、失うのだ」と言っ
た。

私達は信仰生活で、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」と。「主は与え」ばかりが好
きで、「取られる」は好きでない。しかし、失う事はあっても、必
ず私達は御手の中に堅く守られ、信仰の生涯を全うできる。船を失
う事があるが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げ
られることを覚えよう。

得る事は喜びだが、失う事は痛手だ。しかし、振り返る時、あの時、
この時の損失、それによって自分自身が練り鍛えられ、きよめられ、
信仰が成長させられ、今の自分があるのではないだろうか。あの損
失が無ければ、今の自分は無い。あの取り扱いによって、自分は成
長できた。損失は必ず通るが、思いを遙かに越えた大きな祝福に至
る。船を失うことがあるが、豊かな霊的祝福が与えられる。
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祝福と同じように今年も試練は必ず来るだろう。平安は目に見える
ものの向こう、主にあると何度も経験させられる。失うときに、信
仰によって立ち上がりたい。