2017年03月11日(土)

「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分 の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:2 4



主は、ペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするも
のだ」と言われた、そのすぐ後で、弟子たちにも言われた。「だれ
でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架
を負い、そしてわたしについて来なさい」と。弟子たちは主につい
て来ていたが、従うために、「自分を捨てること」と「自分の十字
架を負うこと」を言われた。

ペテロに「人のことを思っている」と言われたが、主に従うために
は、その自分の思い、肉の思いを、捨てる必要があると。「自分
が」良かれと思う思いと、「主が」良いと思われることが、しばし
ば違う。神の思いと人の思いが異なる。どうしても自分はこうした
いとの強い思い、強い主観がある時に、思い込みが強くて、それが
妨げとなり、見えなくなってしまう。経験あるだろうか。

主につき従うためには、その強い思いをまず明け渡す必要がある。
そして「十字架を負うこと」、これは自分の思いでなく、神の御心
に従うことだ。自分を神の御旨に従わせて行く。主も、神のあり方
を捨て、ご自身を捨て、十字架の死にまで従い尽くされた。「自分
の思いを捨て」「神の御旨を行って行く」この歩みをして行く時に、
神を真に知り、出会う体験をして行く。

例えば海外旅行はどうだろう。チケットを購入するなら実際に搭乗
できて、楽しい旅行を満喫できる。しかし購入しないなら乗れない。
同様に、もし御言葉を聞くだけでなく、実際に従うなら、大きな喜
びを経験する。示されるままに、一歩踏み出そう。

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信仰人生は、自分の思いを捨てて行くことの歴史だ。自我が、強い
自分の思いを握り締め、放す事は不可能に見える。人に出来ない事
が神には出来る。助けを求める時、捨てる事が出来るように、御霊
が助けて下さる。そして手放すほどに御霊の喜びと平安が増し加わ
る。