2018年11月10日(土)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上も ない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じ・・成長を遂 げた、完全な者となります」ヤコブ1:2


クリスチャン人生における、神の祝福をしばしば勘違いする。受験
合格は祝福されていて、不合格は祝福されていないと思う。仕事は
常に繁盛で、家族は皆、健康で、いつも嬉しい事、楽しい事が溢れ、
心は喜びで満ちている事が祝福だと。そして最後は天国で、めでた
し、めでたしで終わると。

祝福とは、幸せで楽しい事、問題が無く、平穏無事、順風満帆のこ
とだと思う。だから、ある日突如として、倒産したり、リストラに
なったり、家族が病気、子供は受験失敗となれば、パニックになる。
こんなはずではない。何で?どうして?神は祝福してくれるはずで
は無いのか。

未信者の親族からは、そんな事では信心している意味がない、と責
められる。自分自身も不平不満が募って来る。しかし聖書は、そん
な事は言っていない。信仰人生、順風満帆で問題が何もないなどと
は、一言も言っていない。むしろ多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、
懲らしめ、刈り込みと出て来る。痛いし、辛いがそれは、後の日に
必ず結実すると。平安な義の実を結ぶ。

新しく生まれたからこそ、その新しい性質が主に似るようにと成長
して行くために、多くの訓練が与えられる。懲らしめは、神の愛だ。
「愛」も勘違いしていいないだろうか。暖かく包まれるような、嬉
しい喜ばしい感情的なもの、ハピーな事が愛されている事と。

しかし、聖書は懲らしめが愛だと言っている。「主はその愛する者
を懲らしめ」、必要な事は、根底の価値観を修正する事だろうか。
試練、訓練、刈り込みは、神の愛だ。愛されているからこそ、キリ
ストの似姿へ造り変えようとされている。

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試練は決して望まないが、でも、後で振り返る時、驚くほど教えら
れ恵まれる。それが無ければ、後の信仰生活は無いと思える。試練
が無い方が私生児だと言っている。試練に会うとパニックになって
しまうが、そこに主を認めて、一つ一つ学べるよう、造り変えられ
るよう祈ろう。