2019年05月11日(土)

「そして舟に乗り込まれると、嵐がやんだ。彼らの心中の驚きは非 常なものであった」マルコ6:51


弟子たちが、夜の嵐に悩まされていた中、湖の上を歩いて、弟子た
ちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、恐れで叫び声をあげた」
とある。みなイエスを見ておびえてしまったと。なぜ、主が幽霊だ
と思ったのだろう。「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、
その心は堅く閉じていた」。心が堅く閉じていたからだと。

主を見ても主だとわからない。認識できなかった。まず、主が湖の
上を歩くなどと、発想もなかった。「彼らの心中の驚きは非常なも
のであった」なぜ主が湖を歩くはずがないと思ったのか。弟子たち
は、主は偉い先生だが、人間だとしか思ってなかった。主を正しく
認識せずに、間違って認識していれば、助けを受ける事ができない。

主を小さく見積もるなら、様々な問題に、「これは難しい」「これ
は無理」と決めつけ、不信仰の暗闇に落ち込んでしまう。嵐に飲み
込まれ、沈んでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどう
だろう。この程度なら主も可能だろうが、これは難しいからだめだ
と、自分で判断し、思い込みがないだろうか。

「幾ら主でもこれは不可能」との思いが心の底に無いだろうか。そ
れこそ心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づ
かれても、主を恐がり怯えてしまう。自分が主の上に立ち、判断し
ている事に気づこう。主に心を開く時、全能の主がかたわらにおら
れる事に気づく。不可能な事が一つも無い主だ。そして愛の主だ。
問題に心を開いて主を迎える時、風がやむ。平安が臨む。

・・・・・・・・・
主が幽霊に見えるように、見えない先の事を思い煩う時、漠然とし
た不安や恐れで幽霊に見える。不安で不安でたまらない。しかし
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と、向こうか
ら来るのは幽霊でなく主だ。信仰に立つ時に、心は守られる。