2020年07月11日(土) 「だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義 を行ない、心の中の真実を語る人」詩篇15:1
「だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義 を行ない、心の中の真実を語る人」詩篇15:1
ある人が、個人的に厳しい状況にあり、深い悩みの中にいた。職場 で以前から信頼できる先輩に相談した。先輩は悩みをじっくり聞い て、「ごめんね。私にはどうしてよいかわからない。解決の方法も わからず、何も言って上げられなくて、ごめんなさい」と正直に答 えてくれた。それは極めて誠実な対応だった。 私たちの主への態度はどうだろう。主は常に私たちを助けよう、助 けたいと願い、待ち構えておられる。だが、私たちの態度が問題だ。 主の御前に、正直である事を喜ばれる。主に対して正直で、真実で、 ありのままでありさえすれば、主はどんな状態であってもも導いて 下さる。どんなに自分で、もうだめだ、取り返しがつかないと思う ような酷い状態でも、正直でさえあれば、主は必ず導かれる。 「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」心の中の真実を、自分の 内にあるものを、ありのまま認める事を喜ばれる。その真実の反対 が、「まやかし」だ。「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわ たしにまやかしを言う」。自分を繕い、ごまかしてしまう。主の御 前にまでも、良い人の仮面をつけて出る。本音と建前があり、弱さ を主の前でも、人の前でも認められない。 しかし、弱さをありのままを認めて行く時、御霊の光に照らされる。 光は心の隅々まで照らし出し、二面性のない、裏表の無い人格を形 造る。私たちはどうだろう。主が贖おうとされるのに、ごまかしを 言っているだろうか。 ・・・・・・・・・・ 心の闇は、御霊の光に照らし出される時、闇は闇で無くなってしま う。光の中だ。しかし、自分自身が光の方へ向かない限り不可能だ。 光があっても、自分が目を閉じて、見なければ闇の中と同じだ。痛 くても光から逃げず、向いて行く時、いやされて行く。解決して行 く。