2022年06月10日(金)

「・・あなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、 バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行き ます」ヨハネ3:26


ヨハネの弟子達が、ユダヤ人ときよめについて議論した。その時、
ヨハネの弟子達は痛い所を突かれた。皆が主イエスの方へ行ってい
る。党派心や妬み心があったようだ。主イエスが人々に好かれ、人
気を博する事に、自分達の師ヨハネと比較して、妬んだ。我が師び
いきのため、心寂しくもあった。

人との比較は、必ず劣等感と優越感を生み出し、その間を行ったり
来たりする。それらは表裏一体で、その根は高慢であって、高ぶり
から来ている。比較には平安が無く、満足を得る事がない。ユダヤ
人と議論をして、彼らは、イラ立ちをそのまま師のヨハネに持って
行った。

「みな、あの方のほうへ行く」と、まるで師であるヨハネを責め、
あおるかのようだ。しかし、ヨハネは心底へりくだった人だった。
「人は天から与えられなければ、何も受ける事はできない」と。主
の主権を心から認め、平安であり、主の御心を良しとし、受け入れ
て満ち足りていた。

へりくだっている人を、人もサタンもどうにも出来ない。「高く上
げることは、東からでも、西からでも、荒野からでもない・・神が
低くし、高く上げられる」成功、栄誉、人気もすべては上から来
る。
それを真に認め、受け入れる時、嫉妬や劣等感から解放される。

妬みに支配される事はない。各々、賜物が違い、使命が違い、用い
られ方が違う。一人一人が、皆違う。異なるので比較のしようがな
い。すべての主権者は主だ。主から来るものを感謝して受け取る時
に、真の満足と平安がある。
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生まれた時から比較の中で育ち、古い価値観が染みついている。人
と同じようにと思い、出来ないと落ち込む。そこから主は自由にし
てくださった。皆違うという祝福を自分のものにしよう。