2023年10月11日(水) 「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、 肥えた谷の頂きにあって、これを美しくその美しく飾る花もしぼみ ・・」イザヤ28:3
「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、 肥えた谷の頂きにあって、これを美しくその美しく飾る花もしぼみ ・・」イザヤ28:3
エフライムは、「肥えた谷」とある肥沃な地を持っていて、「誇り とする冠」とあり非常に高慢になっていた。「酔いどれ」、酒に酔 いつぶれながら、自分を誇り、自慢していた。主はその酔いどれの 誇りとする冠を、足の下に踏みにじられるために、アッシリヤを送 られた。私たちも同様だ。 何かの成果があると、主の恵みを忘れて、自分の力で得たかのよう に、高慢になってしまう。主に栄光を帰すのでなく、自分が栄光を 奪い「誇りとする冠」にしてしまう。そんな時、主は私たちを愛し ておられるので、私たちにもアッシリヤを送り、砕きとされる。 今、もし痛い事、辛い事態が来ていたら、へりくだって、御霊に自 らの内側を探って頂こう。 自らを誇っていなかったか、主の恵みを横取りして、自分の手柄に していなかったか。主はしばしば、様々な事態を送られて高慢を砕 いて下さる。それは主の愛だ。私たちは、放っておかれたなら、す ぐに天狗になって、主から離れてしまう。思うようにならない状 況、事態は、主からであり、感謝なことだ。そこでつぶやき、反発 し、不満をぶつけるのは、方向違いだ。 へりくだって、主のお心を求め、悟りたい。過去を振り返る時、思 い通りにならなかった事態が、どんなに感謝で恵みであった事か、 思い知る。それが無ければ、どんなに高慢になっていただろう。主 の守りに感謝しかない。 --------------- 強い自我はすぐに自らを誇り、拠り所としてしまう。自分の力が及 ばない状況になってはじめて主に託せる。試練の中で、主に出会う 事は感謝だ。どんな時にも主を誇って歩める。