2024年09月10日(火)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同 然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信 仰は弱りませんでした。彼は・・反対に、信仰がますます強くなって、 神に栄光を帰し」ローマ4:19



信仰とは、目には見えないものだ。触れる事も、感じる事も出来な
い。日頃、慣れている五感では、感じる事の出来ないものだ。しば
しば、五感で感じようともがくのだが、決して感じることは出来な
い。そうでなく、主の語られた御言葉を信じ、御言葉に立つことが
「信仰」だ。五感では感じる事が出来ないのだが、御言葉に立って、
つかむ事ができるものだ。

第六の感覚であって、それによって、「死者を生かし、無いものを
有るもののようにお呼びになる方」のみわざを経験して行く。その
信仰が最も大きく働き、成長するのは「不可能」の土壌においてだ。
人間的に困難で、可能性がより少ないという状況ではなく、絶望的
であり、全く可能性ゼロの状況においてだ。あなたも経験あるだろ
うか。

今、可能性ゼロの状況なら、人間のものではない、主ご自身のみわ
ざを見る時と機会だ。感謝しよう。それこそが、「もしあなたが信
じるなら、あなたは神の栄光を見る」場所だ。ラザロは死んだ上に、
四日が過ぎ、もう身体は臭くなっていた。更なるだめ押しだ。目に
見えるところの現状か、それとも主の言葉か、どちらを選択するか
にかかってくる。

「不可能」の土壌において、奇跡は起きる。目には、何も見えず、
感じる事が出来なくても、御言葉に立って、信じることを求められ
ているだろうか。祈ろう。主の栄光を見る。
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自分の感覚、判断では不可能は、不可能でしかない。目に見える状
況は強烈でも、そこから主に向き、信仰により御言葉に立とう。主
が共におられる。瞬間、瞬間、選択しよう。