2005年01月11日(火)

「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(ローマ6:16)


ひとりの婦人の証だ。引っ越し先に、大家の実母が庭を自由に出入りし、手入れをしていた。一応借りたものであり、庭の使い方もプランがあり、嫌だった。が、ずっと我慢して祈っていた。早朝から入って来るので落ち着けない。水道も勝手に使い水を撒く。手入れしないから私が、とまで言われ、しかし、我慢し尚も祈り続けた。ある朝、自分達が置いていた物を勝手に動かされ、とうとう切れた。一言言おうとするが、爆発しそうだった。自我は抑えられず、心で神様助けて!と叫んだ。その時勝手に口から言葉が出た「すみません。いつも良くして頂いて」すると相手は人が変わったように好意的に優しくなり和気あいあいの間柄に。瞬間主を選べ。助けが来る。
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心のおもむくまま、自我に引かれていくなら、言いたい放題、したい放題。一時の開放感はあるだろうが、結局は罪は罪をよび、罪の奴隷でがんじがらめだ。主を選ぶならみわざをみる。