2007年09月10日(月)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14



取税人とパリサイ人が、宮に来て
祈った。祈りの言葉で、心の内が
見えて来る。パリサイ人の意識は、
ただただ「人」に対するものであ
った。そこに神は無い。取税人は、
人などそこに介在せず、ただ「神」
だけを見上げていた。あるのは、
神と自分の関係だけであり、神意
識だけだ。パリサイ人は、神よ、
と言いつつ、実は神ではなく、人
に対する自己意識だけだ。人と自
分だけだ。取税人は、神の前の自
分を意識して、自らの罪を認めて
いる。パリサイ人は人と比較して、
自分を見ている。自分の罪の基準
が、人によるのだ。だから罪認識
があり得ない。このようにサタン
は常に、人と自分を比較させる。
御言葉の光に自分を照らし出すの
ではなく、人との比較で、自分は
どうなのかを見せる。それはサタ
ンの誘惑であり、その罠にはまる
と、人より優るなら優越感、人よ
り劣れば劣等感となり、上がった
り下がったりしている。人の間を
行ったり来たりで、真の罪認識に
至る事がない。決して無い。罪を
認める事が無いので、罪が赦され
る事がない。神に向かわない限り、
人は罪を知る事はできない。罪が
赦されるのは、罪人だけだ。罪の
無い者の罪は赦されようがない。
十字架が適用されるのは、犯罪人
だけだ。罪を人との比較で見てい
ないか。
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人との比較ばかりの世にあって、
しっかり神様と自分の絆を保って
いなければ、見るべきものを誤っ
て行く。神様との良い交わりの中
を今週も歩もう。