2009年01月10日(土)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・くれたので、私は食べたのです」創世記3:12


エデンの園で、罪を犯したアダムに、悔い改めの機会を与えるために、神は「あ
なたは・・食べたのか」と問われた。
しかし、その時、アダムはエバのせいにした。その上、「あなたが置いたあの
女」と神のせいにした。有名な責任転嫁だ。

「あなたのせい、あなたが置いたあの女のせい、あなたが置いたのが悪い」、そ
して自分は被害者なのだ。
神が食べてはいけないと命令された、木の実を食べた。どう言い訳しようと、実
際に自分が罪を犯した。しかし、それを決して認めない。

私たちもどうだろう。自分を被害者にしていないか。「私も確かに罪を犯したが、
あの状況ではどうしようもなかった。その状況を作った相手が悪いのだ。私は被
害者だ」。

私を怒らすような事を言った相手が悪い事になる。皆が被害者だ。神はエバにも
悔い改めのチャンスを与えられた。しかし、エバも「蛇が悪い。私は悪くない。
私は被害者」と言った。

「あなたが蛇をこんな所に置くから悪い。あなたが蛇を置いたからこうなった。
なぜ、こんな所に置いたのか」。これは私たちの日常ではないだろうか。

ある妻が、玄関に水まき用のバケツを置いていたところ、帰宅した夫がそのバケ
ツをひっくり返した。「誰だー!こんな所にバケツを置いたのは!」と怒鳴った。

置いたのは妻だが、まさしく不注意でひっくり返したのは自分だ。その事実は認
める必要があるのではないか。自らの罪を決して認めないで、自分をひたすら被
害者にしてしまっていないか。
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自分を被害者にするなら、相手だけを責め、自分に非はない。しかし、それなら
自分が変えられる事も、成長も無い。実は惨めで哀れな状態だ。言い訳をいっさ
い止める事から始めてみよう。