2009年03月10日(火) 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をおまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33
「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をおまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33
王がAさんに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは 返済不能で、懇願するので、王はかわいそうに思い、赦し、借金 の6000億を全額免除にした。 そのAが出て行くと、Aに100万の借金があるBに出会った。 Bも返済できず、Aに懇願した。もう少し待ってくれと。しかし、Aは赦さず、Bを牢に投げ入れた。 心を痛めた仲間たちは、事の次第を王に報告した。すると、王は 怒って、Aに借金を全額返すまで投獄した。 せっかく免除された借金が、自分に負債のある者を赦さなかった ばっかりに、返って来た。 免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、 その負債を負う事になるのだ。 何という王のあわれみだろう。測り知れない莫大なあわれみを受けているのに、人をあわれむ事ができない。 どこまでも自己中心で、これが人間の姿であり、罪の性質だ。 自分は神に赦されているのに、人を赦す事ができない。 二つの道がある。決して自分を変えないで、そういうものだと、誰でもそうだと、根に恨みと憎しみを持ったまま生きて行くか。 そうではなく、自分が変えられて、神に喜ばれる道、栄光が現される道へ向かうか。岐路に立っているだろうか。自分にはできない。 しかし、神にはおできになる。 神は赦す力を与えて下さる。このままか、新たに信仰に前進するのか。あなたの選択だ。 ------------------- 私には出来なくても、神様には出来る。そう応答して行くことが信仰だ。憎み続けることから解放して下さる神様を信じて、十字架を覚えて、変わって行けますように。