2009年04月06日(月)

「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」Uコリント11:29



非常に強く見える人、自分の力で強く生きている人は、本当は強いのではない。
実は、自分が弱い人間である事を認める事が恐いし、辛い。弱さなど絶対に認め
たくない。

又、自分の弱さは、決して人に知られたくない。人に弱いと思われる事を極度に
恐れる。自分は弱くないと、倒れ崩おれそうな自分に、必死に言い聞かせながら
生きている。弱さは忌むべきものとの価値観が根深くある。

プライドのなせるわざだ。人間は皆、弱い。そういう人は、弱さを人前にあるが
まま出して、自らの弱さを受け入れて、喜んで生きている人を見ると、強烈な憎
しみを抱く。
その人を前にすると、頑張っている自分が崩れ去り、否定されてしまうからだ。

ある人が、主を知る以前、弱さを隠さず、生き生きと自然体で、喜んで生きてい
るクリスチャンが羨ましくてたまらず、妬みは憎しみとなり、いじめたと告白し
た。

人は心の底では常に不安で恐れている。しかし、無力で惨めな自分の真の姿を見
たくない。余りにも惨めなのだ。

いつも突っ張って生きている。しかし、神は弱いままで良い、あるがままで良い
と言われる。惨めな自分を認めた時に、心砕かれ、自由な世界が広がる。

何と肩から力の抜けた安堵と大海のような平安の世界だろう。自由な世界だ。そ
して、弱ければ弱いほど、神の力が働き、更に神を知れるとは何という恵み。

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「突っ張って、頑張って来たんだね。辛かったね。荷を下ろしていいんだよ」と
主が今日も語りかけて下さっている。「弱いままで、そのままでいいんだよ」と、
抱いて下さっている。主の御胸の中に、丸ごと自分をあずけて、深い安堵と平安
を頂こう。