2009年06月06日(土)

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて・・全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2 

        
        
                   
アブラハムにとり、25年も待って与えられたイサクは大きな喜びであり、希望で
あり、命そのものであった。すべての望みはイサクにかかっていた。

イサクにより、子孫が増し加えられ、繁栄し、神の約束が成就して行く。イサク
はアブラハムにとってすべてのすべてであった。いつしか、アブラハムはイサク
を手の中に握りしめていた。

神はアブラハムに、命そのものであるイサクを献げるようにと言われた。アブラ
ハムの苦悩はどんなものだったろう。最愛のイサクを殺さねばならないとは。

イサクが死んだなら、神の契約はどうなるのか。何もかもがイサクにかかってい
る。神は真実であり、絶対に約束を破られない。

しかし、いけにえにと言われる。アブラハムの心中はいかばかりであったろう。
はっきりと「試練に会わせられた」とあり、試練とはテストだ。これは厳しい試
練であり、イサクより神を愛するかのテストでもあった。

深く愛するものは、気づかぬ内に偶像となる。握りしめてしまう。彼は決断しイ
サクを献げた。まさに自分を献げ、自分の人生を、何もかもを「断ち切った」の
だ。命そのものを手放した。イサクを明け渡した。

アブラハムの苦悩、痛み、壮絶な信仰の姿を見る時、「あなたの愛しているひと
り子を」御父が御子を私たちのために殺して下さった、壮絶な愛を見る。その愛
で、あなたは愛されている。
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イサクを献げる極みまでの痛みを通して、御父の痛み、それほどまでの私たちへ
の愛を垣間見る。何という痛みの愛だろう。そして、自分のイサクって何なのだ
ろう。神は、イサクというより、アブラハムの愛を求められた。