2009年10月10日(土)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』・・『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」Tサムエル12:13

いつの場合も、罪が赦され、解き放たれるためには、まず自分の内にそれがある
事を認めることが必要だ。認めない限り一歩も進まない。

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したが、それを隠していた時には「1日中うめいて、
骨々は疲れ果て、骨髄は、ひでりでかわききった」と。苦しい悶々状態だった。
しかし、告白し、罪を認めた時、とがめは赦され心底からの安堵と解放を経験し
た。

私たちはどうだろう。自分を正当化する肉の性質がある。自分が怒るのは、相手
がそのような言い方をするからだ。相手がそんな言い方をしなければ怒らないの
に。自分が怒るのは相手のせいであり、相手が悪い。

又、私がそんな言い方をしたのは、疲れていたからだ。疲れてさえいなければそ
んな物言いはしない。自分でなく疲労のせい。言い訳や弁解を捜すなら、幾らで
も出て来る。

自分は正しくて相手が悪く、状況が悪い。そう言っている限り、自分は何も変わ
らない。変えられるためには、「それをしたのは私です」「その通りです」と言
い訳せずに認めることだ。その時、「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さっ
た」が自分の身に成就する。

自分の心を振り返ってみよう。どれほど多くの自己正当化、言い訳、弁解、責任
転嫁が出ているだろう。あの場面も、この場面も・・。
気づけて「それは私です」と認めよう。その時、必ず自分が変えられて行く。

とにかく、いっさいの自己弁護、言い訳を止めてみよう。自分で自分を護る事を
止める時に、主が弁護して下さる事、赦されている事、神の大きな愛の御手に包
まれている事を知る。

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自分で何とかしている間は見えない。自我に触れるので、肉は決して認めたくな
いが、認める時、十字架から赦しが流れて来て、紛れもなく、自分のための十字
架だとわかる。心砕かれる中に、神の深いご愛と慈しみに、頭でなく心が触れる。