2010年04月09日(金)

「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21


原理と言うのは、法則のことだ。この世界には、色々な法則があるが、法則とは、すべての人にとって、一切の例外なく当てはまるものだ。聖書によると、私たちの中に一つの原理があると言う。

「善をしたいと願うのに、悪が宿っているという原理」、これはパウロの経験だ。パウロは新生したので、善をしたい願いがあった。信仰者には、神が喜ばれること、神の御心を行ないたいという願いがある。新しい命があるからだ。

新しい命は、新しい性質を宿し、神の喜ばれる事をしたいと願う。私たちもパウロと同様、神に喜ばれることをしたい。ところが、そのような願いがあるに関わらず、願いに反する法則が存在する。「悪が宿っているという原理を見いだす」。

非常に困った事態だが、これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げたとしても、引力の法則で、必ず下に落ちる。どうにもできない。自分で良い行ないをして、しばらくは行けるが、必ず落ちて行く。

神を喜ばせる事ができない。それを徹底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫んだ。「誰が」自力では不可能だと悟った。落ちて行くばかりだ。主を仰ぎ、解決を見た。命の御霊の原理の中に置き、罪と死の原理から解放して下さった。
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救われているのに自分がしたくないと思っている罪を自分が犯してしまう。悪の原理の中で罪責感に押しつぶされそうになる時、主の十字架を見よう。神様のあわれみによって主がその罪を赦して下さっている。もう義認されている。