2010年05月10日(月)

「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」Uサムエル24:10


ダビデは、人口調査をして罪を犯した。人口を数えたら、罪なのか?民の数を把握する事、それ自体は罪でも何でもない。しかし、ダビデはそれをした時、良心のとがめを感じた。それをした「動機」が間違っていた事を、ダビデは知っていた。

ダビデは、自らの勢力を誇り、自分を誇るために、人口調査をした。神が与えて下さったものを、自らの力と取り違え、高慢になった。神ご自身ではなく、目に見えるものに頼み、軍事力を力とする恐るべき傲慢であった。神が与えた罰の大きさを見る時に、ダビデの罪の大きさを知る。

ダビデの罪のために、疫病が起こり、罪の無い7万人もの人々が死んだ。神は厳しい試練を通して、ダビデの罪を明らかにされた。神の厳しさは、愛だ。ダビデがこの罪を持ったままに、そのままにされなかった。神はダビデに臨まれた。
私たちはどうだろう。神が与えて下さったものを、自分が横取りして、誇っていないだろうか。

私たちは裸で、この世界に来た。今、有形、無形で所有しているものは、何もかも神から与えられたものではないか。今一度、与えられているものを、神にお献げするなら、聖められて、神に喜ばれるように使うことができる。私物化する事なく、神の栄光のために用いられる。
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神から貰ったもので無いものなど何もないのに、誉められれば自分を誇り、意に叶わなければ不平不満が湧いてくる。なんと傲慢な事だろう。いつも神を見つめ感謝しつつ今週も歩もう。傲慢に少しでも気づけるよう祈って行こう。