2010年09月09日(木)

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5


ある男性が、過重労働状態の中、疲労がピークに達していた。そんな中、少しまとまった休暇が取れた。しばし休息ができる事に、大変喜んだ。その休暇に入った途端、バッグをどこかに置き忘れてしまった。自分が行った場所、通った道筋をすべて探し回った。あちこち電話もし、確認したが見つからない。

カード類はすべて差し止め、対応に奔走、ひどく疲れた。財布にはかなりの金額が入っており、がっかり意気消沈した。免許証はどうしても困るので、再発行に出かけた。バッグは見つからず、行ったり来たり、走り回り、ぐったり疲れ果ててしまった。

せっかくの休暇が、更に疲労してしまい、これは一体どういう事なのか、主の御前に心を静め、祈り、御心を尋ね求めた。その時、どんなに物理的に時間があったとしても、主の平安が心になければ、何にもならない事を思い知らされ、教えられた。主の平安がどんなに素晴らしいもので、感謝な事かに改めて思いが至っ
た。

私たちも同様だ。どれほど休暇があったとしても、主の平安無く、思い煩いで一杯なら休養にならない。主がすべての思い煩いと心配を受け止め、主が与えて下さっている平安に今一度感謝しよう。そして、平安のための十字架を覚え、いっさい主に心配をお委ねしよう。主は私たちに、平安をもたらすために、十字架に
かかって下さった。
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状況も見えるが、私たちは目に見えない主の十字架も知っている。主がそのうち傷のゆえに与えて下さった平安を求めよう。混乱、状況に飲まれそうになる時、ただちに、神様、平安を下さいと祈ろう。