2011年06月09日(木)

「『わたしは・・心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため』」イザヤ57:15


ダビデは姦淫と殺人の罪を犯し、その後に、その罪を認め、徹底的に悔い改めた。そこに頑なさは無く、弁解、言い訳、自己正当化、責任転嫁をする事も無かった。ダビデは砕かれた。神の御前だけでなく、人の前からも逃げなかった。恥ずべき罪が明らかになり、メンツ丸つぶれであり、プライドも粉々に砕かれた。しかし、悔い改めた瞬間、主の赦しを受け取った。ダビデは赦された。

詩編で「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」と告白している。神は、悔い改めを尊んで下さる。サウルも罪を犯した。アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよとの、神の命令を受けながら、従わずに、最も良いものを惜しんで取っておいた。その事で、サムエルの指摘を受けた時に、不従順を認める事なく、言い訳をし、民のせいにした。「民が惜しんだ」「民が取って来た」と。

そして形だけの悔い改めをするが、実は、自分の面目を保つためであった。サウルはダビデと違い、砕かれることがなかった。そのサウルは退けられてしまった。「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」。ダビデとサウルは対照をなす。罪を犯してしまうがその時に、逃げずに、人や環境のせい
にせず、言い訳せず、認めて悔い改める時に、主の大いなるあわれみが臨み来る。変わらない主の愛を経験する。
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罪を犯し神様の前に悔い改める時、あれやこれやと言い訳が出てしまう。100%自分が悪いですとは、なかなか言えない。罪を罪としダビデのように神の前に畏れ深く罪を悔いて行きたい。