2011年10月10日(月)

「アブシャロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王には一度も会わなかった」Uサムエル14:28


その後、王の前に出られないアブシャロムは、ヨアブに仲立ちを頼もうと、二度使いを送るが、ヨアブは動かない。それでアブシャロムはヨアブの畑に火を放つ。自分の事しか考えられない。ヨアブは王に執り成し、ダビデは息子に会った。アブシャロムは王の前に出てひれ伏し、王は彼に口づけした。しかしそれは表面的な和解だけだった。何の解決も無かった。ダビデは、再び迎え入れた息子に裏切られて行く。

息子は巧妙に民に働きかけ、父ダビデに反乱を起こす。が、結果的にダビデの軍に破れ、アブシャロムは死ぬ事になる。アムノンを殺したアブシャロムを赦せなかった事で、結局息子を二人共亡くしてしまった。ダビデは表面上、息子を迎え入れ赦した形に見える。しかし、しばしば自分の心もそうかも知れない。

「主よ。赦して下さい。しかしこの心は見逃し、そっとしておいて下さい。このままでいたいのです」赦して欲しいのだが、赦したくない心は手放したくない。何とも矛盾しているが、肉の現実だ。息子の心もますます歪み頑なになって行ってしまった。罪は更に罪を生む。

ダビデは息子と戦えず、泣きながらひたすら逃げた。しかし、尚もすべてが主のご計画の中で、益とされ、悲しみ、痛み、苦しみが、ダビデの砕きと訓練とされて、ダビデは造り変えられて行った。主の愛は変わらず、主の憐れみは、どんな時も尽きることがない。
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赦せない・・は相手の問題ではなく自分の問題だ。屈折したままの行いは歪み次ぎの罪へと進んでしまう。主には正直であろう、そして赦せないところを明け渡し対処してただこう。