2011年11月09日(水)

「わたしのことばにとどまるなら・・わたしの弟子です。そして、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:31


人々は信仰によって、 したい事ができなくなって窮屈になり、束縛されるのではと恐れている。しかし主は、そうではないと言われ、御言葉は、あなたがたを自由にすると言う。ここでは、主を「信じたユダヤ人」に語られている。信じた人々が、真に主の弟子であるかは「わたしの言葉にとどまる」かどうかでわかると。

このユダヤ人たちは、あなたがたは自由になるとの言葉に、誰の奴隷になった事もないと、主の言葉に反発した。彼らのプライドが傷ついた。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷」と言われた時に、自分たちは罪を犯しているなどと全く思っていなかった。何も主に頼らなくても、すでにアブラハムを父としており救われていると。自分たちは、初めから自由だと。

彼らにとって、主の言葉は誇りをひどく傷つけるものだった。更に、主は「あなたがたは、わたしを殺そうとしている」と言われた。実は、彼らは決して自由ではなかった。しかしそれにさえ気づいていない。主の言葉を否定するほど盲目だった。「わたしの言葉に耳を傾けない」「それは神から出た者ではない」からと。

神から出た者は必ず神の言葉にとどまる。そして罪から救われ、罪の束縛から自由にされる。憎しみ、妬み、敵対心から自由にされて行く。私たちもどうだろう。良い人間であり、人よりはましと思っている時、主の言葉にとどまる事を妨げることになる。
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主の御言葉を受け流す時、主により新たにされ、解放される事を妨げる何かが自分の内にある。認め悔い改め、今朝聞いた御言葉のひとつを素直に受け入れ、とどまり続けたい。