2011年12月08日(木)

「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たあなたの息子のためには、肥えた子牛を・・」ルカ15:30


家出し、行方不明になっていた弟が、無事に戻って来たのだが、兄は父親のようではなかった。家に近づくと、笑い声が聞こえ、パーティの楽しげな様子が見えた。勝手に出て行き、放蕩三昧をして、戻った弟のための宴会などと、納得が行かない。怒りが湧き上がった。実の弟に対して「帰って来たあなたの息子」と冷淡な態度だ。

放蕩した弟の帰還によって、兄の心の奥に潜む思いがあらわになった。家に入ろうともしない兄に、父親が出て来てなだめた。すると、自分がどんなに忠実で正しいかを訴えた。「長年の間、仕え、一度も戒めを破った事はない」と。そして正当に報われていないとの不満。「子山羊一匹貰った事がない」と。しかし「わたしのものは全部お前のものだ」が、父の心だ。「友達と楽しめと」とあり、実は自分も同じように世の快楽を楽しみたかった。

行動にも、言動にも出さずに抑え込んで、外側良いように装っていたが、実は本音は弟と同じだった。弟より、もっと重症であったかも知れない。しかし、父親はそんな兄息子をそのまま受け止め、弟息子と同様に、全く責めも裁きもしていない。その態度は愛と慈しみに満ちていた。兄息子を受け入れ、「おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と。私たちも兄のようだろうか。しかし神は弟と同様に、無条件の愛で、愛して下さっている。
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兄は御父の近くにいながら最も遠く離れた失われた羊だったのかもしれない。自分の心の底があらわになり新しく御父と出会えたのだろうか。私達も生涯を通して日ごとに新しくされ御父と出会って、出会って、生きて行きたい。