2012年07月10日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



謙遜とは、単に腰を低くすることではない。物腰は低いが、心は幾らでも高慢であり得る。謙遜とは、主の言葉を言葉通りに受け取る事であり、高慢とは御言葉を受け入れない事だ。見せかけの謙遜は御言葉を否定する。

神があなたを愛していると言われても「いいえ、私みたいな者が愛されるはずがない」と御言葉を否定してしまう。あなたの罪は全面的に赦された、無罪放免と聞いても「いいや、どうしてそんな事が、私は罪だらけ」と信じない。義とされて、今や義人と聞くと「絶対にそんな事は無い」と自分の思いを信じている。

神はすべての必要を満たすと言われても、「そんな事、無理」と思い煩い続ける。生涯を導くと言われても、決して受け取らずに恐れと不安の暗闇にいる。神とその言葉を信じないことは高慢だ。それは神を認めない事になる。

又、優越感は人を上から見下すので、見るからに高慢だと思えるが、劣等感も同じであり、高慢だ。神の評価、神の見方を受け入れないで、人と比較して、自分が自分の評価を決めている。

神の言葉をどう聞いているだろう。納得の行くものは受け入れ、そうでなければ捨ててしまう。それは自分を神の上に置いている事になる。「へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者」へりくだりとは、神の言葉を、神からのものと受け入れることだ。そのまま素直に受け入れることができなければ、それを主に告げて、そうできるよう祈ろう。助けて下さる。
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み言葉を聞いても自分の生き方を全く変えようとしないのは、神の支配が自分の生活全てに及ぶことを認めてない恐ろしい高慢だ。み言葉を自分の上に置き、変われないと神に助け求める者と、変わるつもりがなく腰だけ低い者、一見、似ているが神はご存知だ。