2012年11月08日(木)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが・・平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11


信仰生活の中で、様々な対人関係を経験する。非難されたり、傷つけられたり、理不尽な扱いを受けたりすると、赦せない思いが出て来る。赦さなければという思いと、どうしても赦せない思いが葛藤する。赦せない思いには、とがめが来て、平安が失せるので、心が苦しくてたまらない。実は、自らが憎むという罪を犯しているゆえに、心が煩悶し、平安が無い現状を、この苦しみは相手が悪いからだと思い込む。自分は苦しいので、更に相手を憎むことになる。

しかし、そうではなく、自分が憎んでいるという罪を認めて、主の御前に悔い改める時、平安が戻る。相手は全く関係がない。これら目の前に置かれている人は、神から来ている。神が置かれていて、私たちの訓練のためだ。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」懲らしめ、訓練は、神の愛だ。目の前の人により、神は私たちを砕かれ、練られきよめられる。

「訓練と思って耐え忍びなさい」「聖さにあずからせられる」「平安な義の実を結ばせる」、厳しい、痛い、悲しい、辛い事により、「愛、喜び、平安、寛容、親切・・」の御霊の実を結ばせて下さる。今、辛い対人関係があるなら、「軽んじ」ないで、しかし「弱り果て」ずに、主からのものと受け止めよう。耐えられない試練は、はなから来ない。与えられない。脱出の道もある。主の御心を求めよう。
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苦い思いや辛い問題は、主に似るために通される訓練と受け取り、受け入れられない自分の心と向き合いたい。どこが変わればいいのだろう。主に問い主に明け渡して行きたい。