2013年05月10日(金)

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために、私の口に口輪をはめておこう」詩篇39:1

ダビデは体調も思わしくなく、心身共に苦しみの中で「なぜ、どうしてこんな目に会うのか」との不満が鬱積していた。しかし、「舌で罪を犯さないために、口に口輪をはめておこう」と。しかし、ひたすら沈黙を守っていると、ストレスが高じて、どうにもならず、鬱積し爆発しそうだった。それを、我慢して抑えつけるのでなく、又、人に言うのでなく、「そこで、自分の舌で言った。主よ〜」主にそのまま叫び、ぶつけた。

心の中の気持ちを吐き出し、洗いざらいを主に告げた。自分の一生は、主の前では、無いも同然であり、人生は、はかなく虚しい。人は、盛んな時でも虚しいもので、人は積み蓄えるが、それも虚しいと。心の内を吐き出した時に、信仰が戻って来た。この虚しい人生で望みをかけられるのは何かと、見上げた時に、主を見い出した。

「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。そして、気持ちを告げた後は、「私は黙し、口を開きません」と。同じ口を開かないだが、最初とは全く違う。「あなたがそうなさった」と、主の主権を認め、ご計画がある事を認め、それを受け入れ、すべてを御手に委ねた。心の内をことごとく主にさらけ出したゆえに、状況を受け入れることができた。私達も奥底の気持ちを、神に告げて、初めて、神のご計画を受け入れる事が出来る。
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口を開けば鬱積した苦しみが噴出し、黙していれば虚しさに押しつぶされる。そんな苦しみの中の希望は、聞いて下さる神が側におられることだ。つぶやきも神と語れば祈りになる。神と語り続けよう。