2013年06月08日(土) 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じ るなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じ るなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5
御言葉によると、神は不敬虔な者を義と認めて下さる。敬虔な者で なく、不敬虔な者だ。何と驚くべき事であり、有難い事だろう。こ の世の根深く培われた価値観では、敬虔な者が義と認められるので あり、頑張ることが良いことであり、品行方正な者が良い者であり、 それらが正しい事なので、全く相容れない。 頑張る事が正しいので、結果が出ないなら、頑張っていない事にな る。ますます頑張らなければならず、極めて辛く苦しい歩みになる。 しかし、不敬虔というのは、罪深い状態であり、いかに自分が醜く、 汚れ、自己中心で、良いものが何も無いと知る状態だ。それを認め る時に、神は働かれ、義しいとして下さる。これは一方的に主の側 の豊かさによることだ。 ぶどう園の労務者の箇所で、早朝から12時間働いた者と、夕刻に 1時間働いた者が、同じ1タラントが支払われた。これは、早朝か らの者は、きちんと主人と契約を交わして働いたのであり、正当な 支払いだ。ただ溢れるばかりに、あわれみと恵み豊かな主は、夕方 少し働いた者にも同じように与えたかった。 主の驚くばかりの「気前良さ」のことを言っている。同様に豊かに 与えて下さる主は、不敬虔な者を豊かに赦して下さる。しかし、ど うしても自分で良い人になろうとする。良い人でいたい自分がいる。 不敬虔なまま受け入れられているとは、何と驚くべき事であり、喜 び溢れることだろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 主の十字架のゆえに、罪しか犯すことのできない者が、受け入れら れている。行ないによってではなく、信じることによって義と認め られる。何という測り知れぬ安堵だろう。何と嬉しい事だろう。た だただ感謝しかない。