2013年09月08日(日)

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御 前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくこと ができます・・神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっている からです」Tヨハネ3:22 

    

神は祈れと言われる。必要を求めよと。しかし、あれをして欲しい、
これも欲しい、こちらから貪欲に求めるのみで、神のみ心など、全
く意に介さなければどうだろう。交わりが生じようがない。ご利益
宗教と同じで、ただ自分の欲しいものをガンガン祈り倒して、手に
入れたいだけだ。

しかし、相手の心はどうなのだろう。主は人格的交わりを求めてお
られる。主のみ思いと、私たちの願いが一致する必要がある。その
時にみわざが成される。何よりも主とひとつである喜びにあずかれ
る。
そのために、私たちの切なる願いを、大胆に確信を持って祈ろうと
するなら、普段から、主のみ心に従っている必要がある。

「神の命令を守り、神に喜ばれることを行なう」ことが大切だ。す
なわち、前節にあるように、人の事を思いやり、人が困っている時
には、その必要に仕えることが大事だ。世の富を持ちながら、兄弟
が困っているのを見ても憐れみの心を閉ざすなら、自分自身が困っ
た時に、どうして心責められずに、大胆に御前に出る事が出来よう
と。

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え
られない」。人の苦しみには耳を閉じ、自分が困ると求めるのは、
自らの心がとがめ、御霊によって祈る事が出来なくなる。心にとが
めがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈っても無駄だ。

祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるように、
悔い改めつつ、普段、御霊に示される事に、一つ一つ従おう。そう
する時、とがめが無いので大胆に祈れ、求めるものを神から頂くこ
とができる。   

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心にとがめがあれば、大胆に求めることができない。罪があれば悔
い改め、御霊の示しをなおざりにしたり、拒んでいないか、心探り、
一つ一つ従って行こう。その時、主とひとつであり、求めるものが
与えられる、