2014年03月09日(日)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大い に喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


この世の言う「弱さ」と、御言葉の言う「弱さ」は違う。前者は、
強さが良い事であり、弱さは劣っている事であり、人に知られたく
ない、隠しておきたい事だ。しかし、御言葉の言う弱さとは、自分
の限界を知り、認めているということだ。

この世の価値観では、比較社会の中で、人より仕事ができない、勉
強ができない、運動ができない、テキパキと動けない、対人関係が
うまくできない、そんな弱さは悪になってしまう。競争社会ゆえ、
負け組になる。そのような価値観の影響を受けると、できない自分、
人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者となる。

そんな自分は、受け入れることができず、認めることができない。
自分が自分を裁いてしまっている。だから人も認めることができな
い。又、弱さが劣っている事になるなら、必然的に、人に弱さを隠
す。弱さを見せると、尊敬を失い、自分の価値が下がると思ってし
まう。だから、表面的な交わりしかできない。

しかし、御霊の世界は違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完全に
現される。「弱さ」の中にだけ、神の力が現れる。自分の弱さを真
に認めた時に、神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それら
を体験する。頭でなく、身をもって知る。自分の弱さを認める時、
御霊の自由の中に入れられ、喜びが湧き、そして生き生きと生きて
行ける。

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生まれつきの価値観では、弱さは悪だ。強いほうが良い。しかし弱
さの中でしか、真に主を知れないことを、弱いことが大きな恵みで
あることを、弱さの中に主の力が現される事を、段々経験的に知っ
て行く。