2014年11月09日(日) 「一タラント預かっていた者も来て、言った『ご主人さま。あなた は、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ とわかっていました』」マタイ25:24
「一タラント預かっていた者も来て、言った『ご主人さま。あなた は、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ とわかっていました』」マタイ25:24
一タラント預かった者は地に埋めた。一タラントは六千デナリで、 一デナリは一日の給料分であり、日本円に換算して一日一万円なら 六千万円だ。たったの一タラントと思うが、社長の留守中に、六千 万を任される社員というのは、よほどの信任ではないだろうか。 しかし、彼は、主人に対する理解が間違っていた。蒔かない所から 刈り取り、散らさない所から集めるひどい人、要求ばかり突きつけ、 奪うばかりの人、恐い人、こんな主人のために、何かをしたいなど と思わない。 もし減らしでもしようなら、どんなひどい事になるかわからない。 関わりたくない。そのまま返せば、文句は無いだろう。主人の彼へ の愛も信任も期待も、何もわかってはいなかった。失敗するという リスクも、すべて受け止めた上での委任であった。 パリサイ人、宗教指導者たちは、こと細かに、懸命に、熱心に律法 を守っていた。罰を恐れ、裁かれないように、必死になって律法を 守る生活をしていた。私たちの神観はどうだろう。いつも要求され、 追い立てられ、従わなくては、罰される恐い神だろうか。それなら 喜びなどあり得ない。 独り子をも惜しまずに与えて下さった、それほどまでに愛して下さ ったのではなかったか。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは 好まない」と言われた主は、あわれみの主ではないだろうか。「主 人の喜びをともに喜んでくれ」が主の心だ。喜びの主であり、喜び を満たして下さる。間違った神観があれば気づけるように。 ・・・・・・・・・・・・ 主人の愛がわかっていたので、5タラントと2タラントの者は自由 に喜びをもって、生き生きと働けた。何かが窮屈で、苦しければ、 律法の下にいる。要求され、追い立てられる間違った神観になって いないか。いつも御霊に軌道修正して頂けるように。