2014年12月09日(火)

「・・また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」出エジプト10:2 


パロは、次々と困難に苦しめられると「お前たちを行かせる」と言
い、苦難が止み、少し落ち着くと「行かせない」と言う。又、苦し
みが臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行かせよ
う」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、
悔い改めに見えるが、モーセの祈りで、事がおさまるや、又、頑な
になり、強情になる。

口では言うが、心の底では思ってはいない事の表われだ。王で、最
高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに、思うがままに回っ
て来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎなかっ
た。脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、元
に戻る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を
知ることには、いっさいならなかった。

私たちはどうだろう。ただ単に災難であり、とにかく苦しみが去り
さえすれば良いのだろうか。それならパロと変わりがない。「わた
しが主であることを、あなたがたが知るためである」。信仰生活で
の様々な困難や問題は、神が主であることを知るために送られてい
る。

それは、主ご自身を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時
だ。悔い改めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。
又、主のご愛を体験する時だ。そこに焦点を当てて、目の前の事態
を受け取ろう。
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やってくる問題の中で、共にいてくださる神を認めているなら、結
果によらず更に神を知り、祝福で終わる。すぐに状況と自分だけを
見てしまいがちだが、主なる神を仰ぎ祈ろう。