2015年05月10日(日) 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人 を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められませ ん。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人 を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められませ ん。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37
裁判は、法律に照らし合わせて、法律に則して、判定される。しか し、「さばく」とは、自分のものさしで価値判定することだ。あく までも「自分の」ものさしだ。だから、他の人をさばく時、自分は 絶対的に正しいとの立場に立っている。まるで一度も罪を犯した事 が無いかのように。 それは、自分を神の座に置いていることになる。その時、自分の事 は棚上げだ。自分は相手よりましな人間との位置に立っている。実 は、さばく自分の内に同じものがある。だからこそ相手の内に見え る。肉の性質は人をさばきたい。人をさばくと、自分が優位に立っ た気になるからだ。人を自分よりも劣った者としていたい。罪の性 質だ。 しかし真のさばきは神にしかできない。人間は、皆、間違う。相手 の外側しか見えず、心の内は見えない。動機もわからない。うわべ でしか判断できない。逆に、もし自分が、人からさばかれたら、ど うだろう。うわべで判断され、批判され、悪口を言われ、見下され るなら、どんなに傷つき、怒り、落ち込むことだろう。それを平気 で人にしてしまう。 まず自分のメガネをはずす事だ。自分の主観でしか見えていない。 それが梁になる。ある人が、窮地に陥った人に対して、冷めた思い しか持てなかった。自業自得だと。しかし「祈れません」と正直に 思いを告げ、祈っていると、自分が相手の立場だったならとの思い が来た。 もし自分なら・・、どんなに辛いかと胸が苦しくなり、ひたすら祈ら された。自分でなく御霊だった。その直後、事態解決の連絡が来た。 主のお心に触れさせられ、喜びに溢れた。 ・・・・・・・・・・・ 主は罪深い者を、愛される理由の無い者をどこまでも赦し、愛し続 けて下さった。良くし続けて下さっている。主のあわれみだ。この あわれみを忘れる時、当たり前になる時に、様々問題が起きる。 絶えず、この主のあわれみの中に、いたい。