2015年07月09日(木) 「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し た。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:8
「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し た。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:8
「あなたは、どこにいるのか」と、主のほうから、いつも私たちを 探し、語りかけられる。私たちは罪を犯した時、とがめが来るので、 聖なる主に顔向けできないと思い、主を避けて隠れる。恐れが来る からだ。そのため主の御前に行けないと、距離をおいてしまう。 人間には善悪の知識が入ったので、罪を犯したままでは、主に顔向 けできないことを知った。その上、主が聖い方であるので、ますま す主を避けて、主から遠ざかる。御顔を避けて、神の御前から逃げ ると、正しい判断、思考が出来なくなって来る。 「どこにいるのか」は極めて大切だ。物理的場所でなく、主との関 係を言っている。居場所が重要だ。主から離れているだろうか。私 たちは良い者に見られたいので、外側を懸命に取り繕う。良いもの に見せる。しかしそれは何の意味もなさない。私たちは罪を犯すと、 本能的に神を避ける。まずいと判断するからだ。 しかし、御子の十字架の贖いがあるからには、恐れなく大胆に恵み の御坐に近づける。罪のための十字架だ。「どこにいるのか」は神 が知らないから問うているのではない。神はどこにいるのかご存じ だ。又、裁くため、責めるための問いではない。それは、私たちの ためだ。私たちを赦し、立ち返らせるためだ。 主のもとにいる事が、私たちの最大の幸せであり、喜びだ。何をし ているかでなく、どこにいるかが大切だ。「あなたはどこにいるの か」、もし今、主と距離を感じているなら、今、すぐに主のもとに 帰ろう。主は両手を広げて、待っていて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 「神の近くにいることが、しあわせなのです」。この幸せは何にも 代えられない。主に満たされている時、問題が問題でなくなる。い つも「あなたはどこにいるのか」と主との間を、関係を、問われて いる。絶えず主のもとへ帰れる。