2015年08月10日(月)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4 




ある人が、職場で、周囲の指導に当たって来た。そんな折り、過労
で健康を害し、入院静養になった。退院し、職場に戻った時に、別
の人が指導を担当していた。忙しい部署であり、有難く感謝した。
が、人々が皆、その人の方に集まるのを見て、寂しく、妬ましく感
じたのだ。自分はもう必要ないのでは。自分のほうが熟練なのに、
何で?嫉妬が渦巻いて、心が辛くなった。

又、同じように、ある人は、クラブの部長をし、技量も一番自分が
上と自他共に認めていた。けがをしてしまい、迷惑をかけるので部
長を降りた。数ヶ月後、回復して復帰すると、新部長を中心にすべ
てが回っていて、そこは本来自分の場所と思うと、妬みがどうにも
ならなかった。それを通して、外側良い人である自分の、どろどろ
の内側を見せられた。

どちらも、全然幸せでなく、苦しくてたまらなかった。妬みは、自
分に与えられているものを忘れさせ、自分に無いものだけに目が行
く。ますます自分で心を狭め、辛くなる。この苦しみから解放され
たい。妬みを通して、自分の「罪」を知った。主の御前に心の何も
かもを打ち明け、悔い改めた。

一人の人は相手を「感謝します。」と信仰によって祈って行った。
もう一人の人は、「相手を祝福して下さい」と、やはり意志を向け
祈った。「自分の肉を・・欲望と共に十字架につけてしまったので
す」の信仰に立ち、続けて行く時に、御霊の助けにより、自分の心
が変えられて行くことを経験した。心が平安にされた。
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妬みを主の前に認めていけたら感謝だ。問題は相手ではなく自分の
内側で、妬みに支配されている闇に主の関与を祈ろう。主が与えて
くださっている祝福が見えないとき、苦い思いがないかよく祈って
いこう。