2015年09月09日(水) 「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」ルカ17:17
「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」ルカ17:17
主によりいやされた十人のらい病人が出て来る。当時らい病は、 不治の病で、人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱え なければならない。社会からは見捨てられ、絶望的な日々だったろ う。主がらい病をいやされた噂を耳にしていて、彼らは主にすがっ た。らい病人は人前に出られない。彼らは、遠く離れた所から声を 張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。 遠くからあらん限りの大声で、必死に願った。応えられないと思う 相手になら、はなから求めはしない。その切なる求めに、主は応え 「行きなさい。自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をする のは祭司だった。その時は、まだらい病のままだ。らい病のままで 祭司のもとへ出発する。主の言葉を信じて、行動した時に、途中で らい病がいやされた。 普通なら、いやされてから行くが、彼らはみことばを受け取るや、 出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰が応えられて、途中でき よめられた。そして十人の内、たった一人の異邦人だけが、主に感 謝するために戻って来た。九人はユダヤ人だ。いやしが叶えば、本 音のところもう主に用はなかった。 いやしだけが目的だった。それを得るや、大喜びで、主のもとを去 った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、御前にひれ伏した。 その時、いやし主との関係に立ち返ることができた。「立ち上がっ て、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」この信 仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。 ---------- 癒された結果よりも、誰が癒してくれたかこそが大切だ。それを知 ったなら、順境も逆境の中も、全てが益で感謝だ。どんな時も主を 崇め感謝していられる。