2017年01月10日(火) 「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです」マタイ21:32
「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです」マタイ21:32
主は二人の息子のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園に行き、働 け」と言われ、兄は「行きます」と言ったが、行かなかった。弟は 「行きたくない」と断ったが、後から悪いと思い出かけた。「どち らが父の願った通りにしたか」と祭司長や律法学者たちに問われた。 彼らは「後の者です」と答えた。 主を拒否している彼らであったが、そう言わずにおれなかった。主 は、弟息子は取税人や遊女のようだと言われた。彼らは律法に従わ ず、罪を犯していたが、ヨハネの悔い改めの教えに聞き従い、ヨハ ネがメシアだと指し示した主を受け入れた。 逆に、行くと言ったが、実際は行かなかった兄息子は、表向きは道 徳的で、立派な行ないをしているように見える。が、ヨハネを拒み、 彼の語る言葉を拒み、主を認めず、受け入れない、彼らの姿である と言われた。私たちもどうだろう。クリスチャン生活が年数経ると、 外側、クリスチャン的な振る舞いをしているが、心は、主に入って 欲しくない、主を認めず拒んでいる領域があるだろうか。 「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」とあるが、信仰生活 どこにおいても「主を認める」のでなく、自分ばかりがあり、自分 の思いが強くなっているだろうか。であるなら、主が見えなくなっ てしまう。自分が主を妨げていないか、照らされ、主の示しに従っ て行こう。真の平安と喜びへと導かれる。 ----------- 「行かない」と反抗しながらでも、主を心に据えている者は後で考 えてみることができ、行きたくないと祈ることもできる。表向きは どうであれ、主と関わりなく過ごすことが最も不幸だ。