2017年02月07日(火)

「そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである」マルコ14:40


ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても自分だけは違う。自分は決
して裏切らないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。命を
かけても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」何
があっても大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。自分に自
信があり、自信満々であった。

「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シ
モン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、
ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。主はご自分の
姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあ
まり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、
弟子たちが一緒に祈ることを願われた。

ご自分の弱さを認められ、御父に拠り頼み、祈りに持って行かれた。
弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行
くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペ
テロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないた
め、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切に祈られた。

眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が問題であり、
致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要が無い。自分の弱
さは見たくない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、初
めて祈ることができる。そしてその祈りは聞かれる。
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流してしまっている弱いところで何度も躓いている。主の苦悩と祈
りの姿を思うと、いかに弱さに鈍感で祈り求めることが少ない自分
であるか。弱さを見過ごさず少しでも高みを目指して祈り求めたい。