2017年09月09日(土)

「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重 に番をするように命じた」使徒16:23



パウロは、御霊の明確な示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のた
めにピリピの町へやって来た。そして、川岸の祈り場へ行き祈った。
それから宣教を開始し、悪霊を追い出したのだが、訴えられて捕ら
えられてしまった。そして投獄となった。むち打たれ、暗い奥の牢
へ監禁されてしまった。

祈ったのに、何でこんな事に?御霊の示しに従い、導きに確信もっ
て従ったのに、どうして?御心を行なっているのに、問題が来て、
苦しみがやって来た。なぜ?どうして?ましてや、宣教のために来
たのに、投獄の身だ。あの祈りはどうなったのか?投獄されてしま
って、身動きもとれない。これでは、どうしようもないではないか。
しかし、神の計画は着々と前進していた。

パウロとシラスは、これらすべてに神の主権とご計画を信じ、牢獄
の中で祈りをし、賛美した。愚痴と不満では無かった。何度もむち
打たれた激痛の中でで、賛美した。結果的に、その投獄によって、
看守が救われた。そして、何と看守の全家族も救われたのだ。ピリ
ピの教会の核となり、宣教がなされて行った。

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。つなが
った時に、神のみわざが見えて来る。あんなに祈ったのに、御心に
従ったのに、どうしてこんな事に?との状況にあるだろうか。神は
ご自身のご計画を着々と進めておられる。紆余曲折により、神のみ
思いの通りに、みわざが進行中だ。神に間違いはない。思い煩いと
不安、恐れを「すべてのことについて感謝しなさい」の感謝に変え
よう。

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「なぜ?どうして?」との事態が目の前に起きる。わけがわからな
い。祈ったのに、従ったのに。当座はわからないが、思いを越えた
みわざへと発展して行く。必ず、災いではなく、平安の計画へと着
地して行く。それゆえ全主権者なる主を見上げ、感謝を献げて行こ
う。