2019年03月10日(日) 「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなっ た。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうと している」創世記42:36
「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなっ た。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうと している」創世記42:36
ヨセフは紆余曲折の末、エジプトで総理大臣になった。状況は深刻 な大飢饉だ。以前、自分を隊商に売った兄たちが、食糧を求めてエ ジプトのヨセフのもとにやって来た。ヨセフはひと目見て兄たちと わかった。兄たちはわからなかった。そこでひと芝居打った。シメ オンを人質にして、弟ベニヤミンを連れて来るようにと、食糧を持 たせ帰らせた。 その食糧が尽きた時、再度食糧を得るために、どうしてもヨセフの もとへ行かなくてはならない。父ヤコブはベニヤミンを手放す事を 渋った。しかしシメオンが人質のままであり、且つ食糧は不可欠で、 ベニヤミンを伴うしか選択肢がない。ヨセフが死んだと思っていた ヤコブは、ベニヤミンを更に偏愛したのかも知れない。 ユダが、ベニヤミンもシメオンも必ず連れ戻ると強く説得した。ヤ コブは「失う時には、失う」のだと決意する。ヤコブがいっさいを 主に明け渡した信仰だ。ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御 名はほむべきかな」と言った。そのように主は取られ、また与える こともできる。すべては、主の主権と支配の中にあり、お心のまま にとの信頼だ。 ヤコブはヨセフもラケルも亡くし、今、最愛のベニヤミンまでも失 うかも知れない。しかし何と実際は素晴らしい祝福の現実が待ち受 けていた。握りしめていたベニヤミンを主に渡した時に、シメオン もベニヤミンも返され、それだけでなく、思いも寄らなかったヨセ フをも取り返し、家族が一つにされた。その上飢饉の中、命をも救 われた。今、握りしめているものを、明け渡すよう示されているだ ろうか。 ・・・・・・・・・・・ 明け渡した時に、大きな祝福が備えられている事が、頭ではよくわ かるのだが、委ねる事、明け渡す事は至難のわざに思える。自我が 握り締めて放さない。明け渡せる事も主の恵みで、みわざだ。祈る 事ができるので、祈って行こう。