2022年01月09日(日)

「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼ら の言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エ ジプト8:15



モーセに導かれた出エジプトの際に、主は次々に奇跡をされた。パ
ロは、次々と主により災害に苦しめられると「出て行かせる」と言
う。しかし苦難が去り、ほとぼりがさめると「行かせない」と翻す。
又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行
かせる」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一
見、悔い改めに見えるが、事が収まると、又、頑なに、強情になる。

これは目の前の苦難を何とかして欲しいだけで、悔い改めではない。
口先だけの言葉で、心では思ってはいない事の表われだ。王であり、
トップで、部下は命令通りに動く。何もかもが自分の思うがままに
出来るパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅し
が無くなれば、もう問題無い。だから元に戻り、何も変わらない。

主のみわざが、心からの悔い改めを生み、主のご愛や真実を知る事
には、ならなかった。一方、私たちはどうだろう。不都合な出来事
は、ただ単に振りかかった災難であり、苦しみが去りさえすれば良
いのだろうか。それなら、パロと同じになってしまう。「わたしが
主であることを、あなたがたが知るためである」。

信仰生活での様々な悩みや苦しみは、「わたしが主であることを知
るため」に送られている。それは、主ご自身がまことの神である事
を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めに導
かれるかも知れない。そして確かに主を新たに知れる。目の前の問
題や困難は、「わたしが主であることを知るようになるため」と受
け取ろう。

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この一年も多くの試練、問題、悩みに遭遇する。その時に、目の前
の苦しい状況だけを見るのでなく、主を見上げよう。その悩みを通
して「わたしが主であることを知るようになる」と。何と嬉しい事
だろう。新たに親しく主を知れるとは。受け取れるよう祈ろう。