2022年04月09日(土)

「・・塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリ コに面するところを渡った」ヨシュア3:16


民の指導者モーセの死後、次世代のヨシュアが民を率いて、ヨルダ
ン川を渡る事になる。ヨルダン川は丁度、春先の雪解け水で、かさ
が最も増える時期だ。水はとうとうと岸いっぱいに溢れ流れていた。
橋も船も無い。どうやって渡るのか。主は、ヨシュアに指示を与え
られた。

祭司たちが契約の箱をかついで、ヨルダン川に入れと。自分の背丈
よりも深い川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、
ただ、ヨシュアの言葉だけであった。「足の裏が、水の中にとどま
ると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つ
ようになる」と。

先に、目の前で川の水が、とどまってから、渡るならいとも簡単だ。
誰でも出来る。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足
の水の中に入れる事は決して容易ではない。溺れるかも知れない。
そのためには信仰が必要だ。示され、語られた御言葉に従うことが
信仰であり、そして信仰もって従う時、神の奇跡を見る。

何も見えなくとも、一歩従う時に、不思議が起きて確かに神が見え
て来る。私たちは、見えない状況は、とてもじゃないが恐くて進め
ない。少し見えたなら従おうと思う。しかし見たなら信仰は要らな
い。すでに見ているのだから。

先に川の水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき
止められた。この順序が重要だ。見えたなら従おうとするなら、一
生従えない。今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、一歩踏み出そ
う。神の素晴らしいみわざを見ることになる。

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何も見えない中を従う時は、御言葉を頼りに、真っ暗な中に飛び降
りるようだ。飛び降りると、そこに主がおられ、主の御手にしっか
りと抱かれる。何もかもが本当だとわかる、体験をする。それが積
み重ねられ、信仰が培われて行く。