2025年02月07日(金)

「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道である ペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17



モーセに導かれた民が、エジプトを出た時に、主は、約束の地カナ
ンへ行かせるのに、荒野の道へと導かれた。ペリシテの道が、カナ
ンへの近道だったが、そちらへ行かせられなかった。それは「民が
戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」からで、
そこに主の配慮があった。

長年の奴隷生活で、戦いの訓練も、経験も全く無い民が、戦闘訓練
を受けた敵との戦いなど不可能だ。恐怖で怯えて、引き返してしま
うだろう。私たちの思いの中に、近道、早く着ける道が善との価値
観があるだろうか。回り道は面倒だし、又、苦しい道、困難な道は
避けて通りたい。しかし主は、あえて厳しい荒野の、困難な道へと
導かれた。主が、苦しい、延々時間のかかる道を通されるのだ。

主に不可能は一つも無く、今すぐに、願っているものを与えて下さ
れば良いのに。長々と時間がかかり、事は動かず、まさに遠回りさ
せられていると、感じる状況がある。自分の思いと全く違う道を歩
ませられる。しかしそこを通ってこそ、学べる事柄がある。主に無
駄は一つも無い。忍耐や信仰が培われ、神の愛や慈しみ、真実を経
験する。ゆだねる事を学ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。

そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、進べき道が絶えず示
される。決して道を見失う事はない。荒野での灼熱の太陽から雲の
柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照らした。それは、道中決して
「民の前から離れなかった」。今、荒野にいるなら、主を仰ぎ、従
って行こう。片時も離れず共におられ、導いて下さる。
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明日のことを知ることはできなくても、主に委ねて歩める。
何という慰めだろう。目には見えなくても主の鉄壁の守りがある
のだから。思い煩いを主に渡しながら、信仰をもって歩もう。