2025年03月10日(月)

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」ルカ12:25



私たちは、心配な事態が来ると、不安と恐れに取り込まれてしまう。
不安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思もうとしても、不安が泉のご
とく湧き上がり、どうにもならない。経験があるだろうか。周囲か
ら幾ら大丈夫と励まされても、どうしてもだめなのだ。「何も思い
煩うな」との言葉は、頭ではよくわかるのだが、しかし不安にさい
なまれる。

主はそれもご存じで、「明日のための心配は無用」と言われた。明
日の事はいっさい考えず、今日だけを考えればよいと。今、現在、
何か不足してるか?とりあえず飢えていない、身体も守られている。
今日の必要は与えられている。では、常に「今日」の、目の前の必
要は、ずっと与えられて来たのではないか。その「今日」の連続が
一生だ。

まだ見ぬ明日を恐れるより、今日、必要が満たされている事に目を
向け、感謝してはどうだろう。その感謝は、信仰と喜びを与えてく
れる。感謝する時、視点が主に向く。すると主視点となり、心が落
ち着いて来る。主にはご計画があり、一羽の雀さえ忘れられていな
い。目の前に問題があるが、それは災いでは無く、平安と将来と希
望のためのものだ。

その問題を必ず平安の落とし所へと導いて下さる。独り子を与える
ほどに、愛して下さっている。目が、問題から、御言葉へと転じる
時、心が落ち着いて来る。明日の心配は無用と言われる主に、問題
を委ねよう。そしてこの一日だけを考えて行こう。信仰の練習だ。
今日の荷は十分に負えて、その荷は軽いと。
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心配や不安がますます心身を疲弊させていく。不安が来るとき、主
の恵みを数えて感謝にかえていきたい。今日を喜び、一歩一歩主に
支えられて歩もう。今日も明日も主が心配していてくださる。