2006年09月09日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32  

なぜ、あの失望落胆、絶望で、主が見えない
弟子達の心が燃えたのだろう。主ご自身が語
り、教えて下さったからだ。彼らは主の語ら
れる御言葉に聞き入った。すると、御言葉に
目が開かれ、心が赤々と燃やされた。主を知
りたいという願いが起き、別れ道に来た時に、
無理に、せがんで一緒に泊まるよう願った。
これは「求め」だ。主に求めた。家に入って
頂くとは、心開く事だ。心開いたので、主が
ご自身を現して下さり、生きておられる事が
わかった。失望と復活を信じない不信仰で、
さえぎられていた目が開かれた。不信仰が信
仰に変えられたのだ。話し合い、論じ合いっ
ていた彼らは知識は充分にあった。幾ら聖書
知識があっても、信じなければ決して主は見
えない。今、落胆で不信仰に陥っているか。
今、この時も主はあなたのすぐ横におられる。
心開いて、御言葉を今一度信じてみないか。              
・・・・・・・・・・・・
主との間をさえぎっている自分の不信仰や
頑なな心、閉じた心に気づけるように。主は
今日も、この瞬間もかたわらにおられる。自分
が問題だ。気づく時に目が開かれて行く。良く
して下さっている主が必ず見えて来る。喜びが
出て来る。